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ロカール探偵がゆく

第二話  創業者、長原實から新事実が!


インタビューが進むうち、長原相談役の頭の走馬灯から
かなり古い社員でも知らない事実がこぼれ出てきました。
「ロカール探偵」が動き出すときが、いよいよ近付いてきた?!

 

─── 苦労してつくった「ロカール」は、売れましたか?

長原 それを聞いてくれるなよ。完成したはいいが、旭川でも北海道内でもなかなか売れなくて…悩んだものさ。そんなとき「北海道ではなく、東京なら売れるかも知れない」とアドバイスしてくれたのが、札幌の建築家・上遠野徹(かとのてつ)さんだった。
 

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─── いきなり東京ですか!

長原 そうなんだよ。当時新宿に輸入家具専門店「小田急ハルク」がオープンして注目を集めていた。そこにパイプを持っていたフジインテリアという会社の社長が、新しいことの好きな人でね。当時は確かキャプテンチェア?ディレクターチェアっていうのかな?映画監督が座るような、あの椅子をつくって売っていたんだ。

その彼に勇気を奮って相談したら、「よし、僕が持って行こう!」とハルクへの口利きを買って出てくれたうえ、品物まで運んでくれた。なんだか僕は、いつも誰かと縁があってその力を借りて前に進んできた気がするよ(しみじみ)。


─── そして「ロカール」が売れ始めるんですね!

長原 まあそう先を急ぐんじゃない。まず僕らはハルクへ行き、西澤さんという課長に家具を見せた。彼はすぐに部長を呼んで来て、ふたりして腕組みしてしばらく考え込んだ後、「扱ってみよう」と言ったんだ。

結局、ハルクも輸入家具ばかりで2年間やってきたが、ほしいというお客はいてもごく限られた層だし、1ドル360円の時代。値段が高くて思うように売れていなかったんだな。そこへ、同じヨーロッパの雰囲気を持った国産品が半値くらいで登場したわけだから。

それからしばらく経ったある日、ハルクから電話があったんだよ。「応接セットが売れました!」って。そりゃあうれしくてね、工場に飛んで行ってみんなに伝えたよ。


─── 応接セットということは、この椅子が4脚も5脚も売れたのですか?

長原 実はね、右片袖と袖なしと左片袖をつくって、3脚並べてソファーとして売ったんだよ。その向かいに、両袖が2脚。全部で5脚だね。当時の価格で確か1脚3万円とか4万円とかだったから、今なら約10倍でしょ。我ながら高級だったね~。

ところが不思議なことに、ハルクで売れ始めるとほかの店にも噂が広がっていくんだね。「国産品で面白いものがあるぞ」って。3カ月後にはほかの百貨店からも声がかかった。そこでまた新しい出会いがあってね。三越さんを中心に家具を卸していた問屋さん、「平安工房」の外村(とのむら)さんという人と親しくなった。京都出身なんだけど、これがまた反骨精神の持ち主で。僕はどうもそういう人と意気投合するんだ(笑)。
 

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─── ロカールをつくった職人さんは誰?

長原 誰、というより、みんなでつくっていたんだ。ひとりで1脚という工房のようなつくり方じゃなく、流れ作業に近かった。僕は西ドイツ留学(第1話参照)で産業革命の思想にふれ、そのシステムも体験していたからね。まだ、均一に大量につくることが重要だった時代さ。

そうだ、そのときの職人で今も残っているのが、椅子張工場の二門弘美君だよ。二門君は僕の初めての弟子と言っていいかな。僕がロカールを売り始めたのは34歳だったんだが、その頃は人が足りなくてね。これから会社を築いていくのに、“子飼いの弟子”、ん?わからない?つまりまっさらな状態から育てる直系の弟子がほしかったんだ。そこで中学の先生などに頼んで、職人になりたい人がいないか探してもらった。そうして紹介された中に、二門君がいたのさ。

中学を卒業したばかりの15歳。お父さんのところに行ってね、「弘美君を私に預けてください」「職人が食べられない時代なんかありません」と説得したんだ。だから彼の勤続年数は、ロカールと同じ45年だね。しかしなんだね、こうして会社の歴史を振り返ると、人間関係が大事だと改めて思うねぇ(ふたたびしみじみ)。


─── デザイン画をお持ちと聞きました!

長原 ああ、西ドイツ留学時代にデザインしたものだけど、レンダリングはあるよ。帰国して旭川市木工芸指導所に勤めたんだが、そのときに試作をして完成させたんだ。指導所を辞めるとき所長の松倉定雄先生に、このデザインを持って出ていいか、つまり製品化して販売していいかということなんだけど、聞いてみたら、二つ返事で無償で出してくれたんだ。
 

─── それにしてもロカール、45年経ってもがっちりしていますね。

長原 この後ろ脚と台輪のジョイントを見てくれよ。今でこそ「フィンガージョイント」(両手の指を合わせたような接合)は発達して、それなしで椅子がつくれないほどポピュラーになっているけど、これは僕が指導所時代になんとか接着面を広くしようと考えた技術なんだ。当時はそんな高度な加工をする刃物がなかったから、特注で刃物までつくった。当時ウェグナーもこの技法を使っていたね。
 

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長原オリジナルのフィンガージョイントは、今のようなギザギザではなく波形。


─── どこかに実物が残っていないでしょうか。心当たりありますか?

長原 さっき話した建築家の上遠野さんのところにはあるはずだよ。連絡してみるといい。それと元内閣官房長官の五十嵐広三さんが持っていたけど、亡くなって旭川の自宅も処分したようだから、どうだろう。そういえば五十嵐さんの自宅の応接セットは他産地の家具だったんだ、あれはくやしかったなあ!あとはそうだな…カンディハウスの前身「インテリアセンター」の名前を考えてくれた三井設計の三井昭さん。今は息子さんが事務所を継いでいるから、聞いてみたらどう?
 


~ 第三話につづく ~
このあと、勤務年数の長い社員やOBからもロカール情報が…!

果たして手がかりは?