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旭川の「ひとつを愛する人」を訪ねて

第三回 (株)壺屋総本店 相談役  村本 洋さん


つくり続けているもの:壺もなか

 
 

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この壺の形は「壺屋総本店」とともに商標登録されている。

 

「壺もなか」の発売は昭和8年(1933年)。店の5周年の売り出しでつくったんだけど、名前は壺屋総本店だから付いたんじゃないんだ。創業者の父は丹下左膳が好きでね。当時の映画に出てきた、百万両のありかを塗り込めた「こけ猿の壺」から取ったらしい。父にとっては壺が宝の象徴だったんだろう。創業当初は風呂場の隅に調理場をつくってたような大変な時代だったからね。

 

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最中という言葉そのものは、700年代に宮中の月見の宴で生まれたといわれる。「まっさかり(最中)の月」が歌に詠まれ、お菓子となっていったらしい。そして千年後の江戸時代、浅草の菓子屋竹村伊勢が初めて「もなかまんじゅう」を売り出したんだ。粋なオヤジの商品開発さ(笑)。薄い餅を炭火で焼いて餡をはさんだ、まぁ今で言うハンバーガーみたいなものだね。

もなかが「菓子」になったのは明治維新以降。金物の鋳型がつくれるようになり、全国の「種屋(たねや。菓子材料屋)」で花鳥風月をかたどったさまざまな「型」が生まれたんだ。昔も今も、菓子屋の最中の皮はほとんど種屋に分業化されている。これはとても合理的なんだ。そのぶん店は餡に集中できるからね。壺もなかの皮は、創業者が全国の種屋を食べ歩いて厳選し、青森や小樽、滋賀などでつくってきた。この壺の形は、おそらく当時の看板屋さんに頼んでペン描きしてもらったんだろう。

 

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職人の上北憲治さんが案内してくれた工場。ここで毎日壺もなかがつくられる。

 

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壺もなかの皮。現在は兵庫県の種屋から送られてくる。

 

昭和16年(1941年)からは戦争のため営業を中断し、同21年、家と併設した工場で菓子製造を再開した。それから3年後、道内で弟子にのれんを分け、正式に「壺屋総本店」の名が付く。戦後は物不足で、人々が甘いものを渇望した時代。砂糖なんか組合で割り当て制度があったほどの貴重品だった。その砂糖がたっぷり入った餡を使う最中は、飛ぶように売れた。それだけで会社が成り立つくらいだったと聞いている。僕が7、8歳の頃かな、社員が5人10人自転車の荷台に「番重(ばんじゅう)」を積んで、工場から平和通(現旭川買物公園)にあった店に何十回も運んでいたのを覚えている。「坊主、前に乗れ!」と言われて、自転車のバランスを取る手伝いをさせられたものだよ(笑)。

昭和40年代に入る頃、人々の菓子への嗜好が大きく変わった。小豆と砂糖の「水の時代」から、牛乳やバター、チョコレートや生クリームの出現による「油の時代」への大転換だよ。その頃から昭和60年代の入り口にかけて、和洋折衷菓子がいろいろ出てきた。同時にお客の好みや舌が変化して、甘さを抑えたものが選ばれるようになっていく。これは、最中には特にありがたくない現象だ。なぜかって?甘さを抑えるため砂糖を減らした「半生」の餡は、水分が30%以上もある。皮に水気が移り、あのパリッとした歯触りがなくなってしまうんだよ。それで、餡と皮を分けて売る「お手づくり最中」のスタイルが生まれた。今は全国に広がっているね。

最近の菓子は「ふんわりしっとりクリーミー」「サクサク、パリカリ」がキーワード。最中もこれからまだまだ進化していくだろうね。原料も変わるし、技術や設備も高度化する。何よりお客さんの味覚が先行するから、昔の味を守っていると「味が落ちた」と言われてしまう。「変えていかなきゃいけないものと変えてはいけないもの」を、わきまえていなければね!最中もそうだけど、変化としては和菓子が和洋折衷時代とはまた違う形で脚光を浴びるときが来ていると感じる。ハイブリッド化か?料理にもっと近付くのか?いずれにしても食生活の変化とは無関係ではないと思うよ!

 

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創業86年を迎える壺屋総本店。

 

■このインタビューは、2015年8月18日に行いました。

 

プロフィール)

村本 洋

昭和17年生まれ。明治大学経営学部卒業後、老舗和菓子屋にて修業、父の東京進出立ち上げに関わったのち、実家の壺屋総本店(旭川)に入社。平成12年から代表取締役社長、同18年から同会長、現在は相談役として家業を見守る。この間旭川菓子商組合長、北海道菓子工業組合副理事長を12年務める。美術に関心が高く、自らも作陶を楽しむ。